その後の日常

2011年5月23日 日常
3月11日、地震の当日は家にいて揺れがおさまってからはテレビを見続けていた。翌日は仕事に出て、仕事先のあまりの「通常通り」に、ものすごい違和感を覚えながら仕事をした。数日してから混乱が始まり、仕事もイレギュラーな状況が相次いだけれどもむしろ違和感はなくなった。計画停電の3週間余りは、なぜだかとても落ち着いた感覚だった。これが自然な流れだろうと感じていた。暮らしというのか、社会というのか、なんと言ったらいいかわからないけれども、平成の時代が縮小していかざる得ない事態なのだからと思っていた。そしてそれは悪いことではないとも思った。期待さえ感じていたのだと思う。

5月下旬になって、いま、なにか変わったろうか?
地震・津波の直接的な被害を免れた東京郊外では、3.11の興奮はもう過ぎ去ってしまったように見える。それは、落ち着いた暮らしが戻ったことのようでもあり、何も変わらなかったということのようでもある。
変わらなくていいんだろうか?変わって然るべきではないのか?変わらざる得ない事態を見てないだけではないのか?





地震・津波は3.11がピークだったけれど、福島原発はまだピークを迎えていないのでしょう?ふた月経って、「実はメルトダウンしてました」とかさらりと報道されてたりする。

3月4月は、過剰な自粛にたいして「普段通りに暮らすことが大事」という空気だったけれど、3.11以後の「普段」はそれ以前の普段とは絶対に違ってしまっているはずなのだ。だけどその違ってしまった大きななにかは希釈されて感じ難くなっている気がする。ほら、書きながら歯切れが悪いし。

昨日の夜、仕事帰りに霧雨が降っていた。荷物が多くて、駅から家まで5分だしと傘を差さずに歩いたけれど、歩きながら、ああ、きっといろんななにかを浴びてるんだろうなぁ・・と思った。思っているのになにもしない、このキキカンのなさ。というか鈍感さ。
こうやって日常に埋没して気がつくと「最悪」を迎えているのかもしれない。

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