小学生の頃、「女優になれるかなれないか」を女の子同士で話題にしたことがあった。泣く演技でほんとに涙を流せるかどうかだけが問題の他愛のない話だけど。
私はすぐ泣けた。
お父さんが死んじゃったらどうしよう・・ってそれだけで涙が出た。考えるまでもない。おとうさんがしんじゃったら・・とフレーズを浮かべるだけで・・・OK!カット! 


この日記を読み返してもわかる。いつもいつも父がいなくなる日のことが頭の片隅にあった。そしてそれが、そう遠い話ではないってわかってた。
同居してからは特にそれが意識された。
父がいなくなって、赤の他人の3人が暮らす家になったらどんな感じだろうとか。
子供のいない私は、父がいなくなったら血脈の途絶えた孤独な生き物というようなイメージが湧いたりした。伯母や従兄弟はいるけれども、直接には繋がらない。ミッシングリング。DNAの孤児。大袈裟だね。

もちろん父がいなくなってからも、夫と母と私とでちゃんと家族してる。家系図の末端で孤独に慄いたりもしていない。

だけど。この家に父がいた日々のことばかり胸に浮かぶ。特に何かをしたわけではない。父も私も言葉は少なく、なにを話したというのでもない。ただ、父の気配をいつも感じていただけだ。それだけで寛いでいた。
いま自分が感じている感情がなんなのか、よく判らない。
悲しい、なのか。淋しい、寂しい、なのか。どれもちょっと違う。つまんない、これが一番近いのか。それと・・。



3月に入ってから、ふわふわとした眩暈が続いていた。貧血は改善したはずだけどなと思っていた。4日前の朝、目が覚めたら左耳が蓋をしたようになって、音が遠い遠い。目が回る。
突発性難聴だった。
やっぱり私はそうとう鈍いんだな。なまじ健康なので、鈍いのだ。病名がついてやっと、疲れてるってことに気付く。

私は父がいないことに草臥れてた。






石川縣羽咋郡

2012年3月18日 日常
能登へは一度行ったことがある。
季節は秋で、宿で大皿いっぱいの甘エビをだされ、こんなに食べられるだろうかと思ったのにあまりの美味しさにぺろりと食べつくした。
先週読んでいた小説の舞台が金沢で、能登へ向かう七尾線の沿線の町が幾つか出てきた。津幡、羽咋、七尾、和倉温泉・・。読みながら、能登の甘エビを思い出していた。

今日、相続の手続きをすすめるために行政書士に頼んでいた父の戸籍が届いた。この家の戸籍から遡って、祖父母の家ですべてが揃うものと思っていたのだが、実際はもうひとつ先があった。
父の出生地の戸籍は「石川縣羽咋郡〇〇」となっていた。

「羽咋」なんて、馴染みのない地名を続けて目にして、へぇ、と思う。小説を読んでいなかったら「羽咋」をどう読むのか判らなかったろう。
私の祖父の太郎さんと、私の祖母のカツさんが夫婦になって住んだ町なのか。そういえば祖父母の若い頃の話までは聞いたことなかった。
70年以上前の能登の若夫婦に産まれた赤ん坊が私の父だなんて、なんだか不思議な気がする。いや、不思議でもなんでもないんだけど。
どういう経緯で羽咋を離れ、北関東の地に住むようになったんだろう。もっと辿れば、祖父母にだって父母がいて、祖父母がいて・・。すごいな・・。
2012年の今日この日に、ここでこうしてPCに向かう私が存在するまでに、いったい何人の男と女が生まれて出会って生きてきたんだろう。

自分のルーツをしみじみ考えるようになるなんて。そういう年齢になったんだなぁ。
突然、とても近しい想いのする町になってしまった羽咋。いつかまた能登へ行ってみようか。甘エビも食べたいし。
安納芋がスーパーで見つからなくなった。
近所のスーパーの何軒かをまわってみたけれど、ない。
石油ストーブで焼く、冬の一番の楽しみだったのになぁ。

ダウンコートを着て出掛けたら汗ばんでしまったし、そういえばここ10日は湯たんぽも使ってなかった。

父の盆栽の梅が満開だ。ワタクシ的には冬は終わった。

記憶と履歴

2012年3月6日 日常
「限りなくなおかぎりなく」の日記を書いた後、ちょっと気になって図書館へ行き「慈雨の音」のページを繰ってみた。遊女の句のことを確かめたかったから。
小説の中に作者の名はなく、と日記に書いてしまったけれど、それは私の記憶違いで今日見たらちゃんと王鞍知子の名が書かれていた。

となると・・・うーん、釈然としない。


大きな図書館の、何万冊という蔵書の棚に埋もれているこんな本を見つけてしまうのだ。こんな文字の連なりを見て、手に取らないではいられないでしょう。

何年か前、本屋で勘が働かなくなったなぁと思うときがあった。言葉に対する感受性が鈍くなっているのかなぁ、と。
何も考えずに棚を見て手に取った本が大当たりで、それはたいてい初めましての作家で、というような本の嗅覚がなくなってきてるなぁという時があった。

その嗅覚が戻ってきたかなぁとも思うけれど、まあ、いま私の中にある想いの、幾つかの言葉の断片を目が探しているだけかもしれない。

表題の随筆を読みながら、父親の骨上げのときの火葬夫の厳かで慈しみのある態度を書いている部分に、ああ、そうだったと思い起こした。
この本の「父」とは上野英信で、昔お目にかかったことのある谷川雁さんと繋がりのある作家。縁というにはあまりに細いつながりだけれど、それでも、上野英信の本を読んでみようかという気になる。

素直に読んでみたいと思う本に出会えるときって、それを求めているんだろうし、きっと間違いはないのだと思う。


なにを探していたのだったか、もう思い出せないのだけれども、気がつくとこの本が読みたくて仕方がなくなっていた。

「限りなくなおかぎりなく」この言葉にすっかり魅せられてしまった。作者は王鞍知子という俳人、ということしか判らず、アマゾンでも出版社のサイトでもこの作品と名前だけがあがってくるばかりで、閉じている。図書館の検索で見ても、都立図書館にすら所蔵がなく、かろうじて区立の一館が持っていたのを地元の図書館を通して借りてもらった。




 めしべ汗ばみ 花粉ひるの深さに散っている


なんとなく想像していた通りの、こんな句を詠むひとだった。
川柳の時実新子や俳人鈴木真砂女のような。




 遊女の墓 みなふるさとに背をむけて


この句には驚いた。
少し前に読んだ宮本輝の「慈雨の音」に出てくる句だったからだ。小説の中に作者の名はなく、作中人物が詠んだ、あるいはどこかで拾った句として宮本輝が作った句なのかと思っていた。でも、この句はとても印象的に使われていたので覚えていた。こんなところで出典を見つけるとは思わなかった。

この王鞍知子の本の巻頭に宮本輝が寄稿しているから、知り合いであったらしい。水上勉も讃辞を寄せていて、宮本輝に水上勉ってどちらも私の好きな作家なので、この本に出会ってしまうのも納得だったりする。

だけど、あれこれと検索をかけていると、私の趣味嗜好はネットの向こうの誰か、何かにすっかり把握されてしまっているのだなぁ。関連ワードとしてこの「限りなくなおかぎりなく」がモニターの片隅に上がってきていたのに、捕まったわけで。
それでも、万にひとつの僥倖にあって、古本屋で手に取るというようなことでもない限りこの本を読むことはできなかったのだから嬉しい。


1991年の出版当時81歳だったそうだから、ご存命ならば一世紀を生きてこられたことになる。時実新子、鈴木真砂女の例にもれず激しく生きてこられたひとのようで、女が女を詠み歌うとやはりこういう作風になるのかと思う。激しさ、がなくては謳えないから当たり前か、とも。





 限りなくなおかぎりなく

この言葉の連なりはとても好きだ。






もういいよ、と父は言った。
もういたいのいやだ、と。
いたいのいやだ、子供のような言い方で。

その日のうちにモルヒネを最大量まで点滴で入れ、血圧を上げる薬などは最小限に減らした。
いたいのいやだ、と言ったその腹部の痛みはもう感じてはいないはずだったけれど、もう酸素を上手く取り込めなくなった肺では息を吸っても吸っても息苦しく、浮腫んだ手足はだるくてだるくて辛かったろう。
上機嫌で鼻歌を歌いながらモルヒネの見せる夢の中で遊んでいたけれど、無意識に腕や脚を力なく叩いて眉をしかめていた。もう全身が不快感に侵されていて、なにもかもが苦しかっただろう。

もういいよ、と父が言ったとき、まだだめ、まだだめだよ、と思ったけれど言えなかった。
もうとうにわかっていたのに、父が呼吸を止めるその時を迎えたくなかっただけ。死ぬその時を見たくなかっただけ。私が。
父がもういいよと言うのなら、苦しくてもここにいてとは言えない。

モルヒネを入れてからも10日。残った生命のエネルギーが父を苦しめた。もういいよ、って言ってたのに。

グリーフワーク

2012年2月6日 日常
混乱している。

3日の晩に訃報が届いた。
友人の、娘さんが急死した、と。23歳。
ひとりきりの娘を突然亡くすなんて。
いま、どんな想いでいるんだろうと、想像して怖ろしくなる。

遠方で葬儀には出られないので弔電を打とうと文面を考えていたら、涙が止まらなくなった。ほんとうにとめどなく涙が溢れてきて、嗚咽するまでになって気がついた。父を想って泣いていることに。昨日もいち日、友人夫婦のことを考えながら、気がつくと父が亡くなった日のこと、病院での姿、葬儀のこと、元気だった頃のこと、去年の今頃のこと、とりとめなくイメージが湧き起こって涙が止まらなかった。少し疲れた。

父が亡くなって半年。自分では、父の死になんとか折り合いはつけられていると思っていた。でも、まだまだだったみたいだ。

葬儀のあと、仕事に戻ったとき、忙しさの中で気が紛れ救われながらも、日常の世界は何も変わっていないことに、なんとも言いようのないズレをかすかに感じていた。世界からも父からも置いてけぼりにされたような。
もともと感情を大きく振るのが苦手で、淡々と過ごしたい性質なので、まあそうかなと受け入れていたつもりでいた。
だけど、友人のお嬢さんの訃報はこたえた。

いま一番したいことは、友人と抱き合って泣きたい。お嬢さんを想って父を想って、友人のために私のために声を上げて泣きたい。
プールで泳いでいて、目の前に浮かぶピーチボールを捕ろうと手を伸ばす。指先に触れた途端ビーチボールは逃げてゆく。追いかけて、我が身の立てる波に揺られボールはさらに距離を増す。すぐそこに在るのに捕まえられない。
そんなもどかしさと、悲しさ。

愛を求める人の姿は、はた目には滑稽で、奇矯に映るのだろうね。真剣なほど。

「いちばんここに似合う人」このタイトルに惹かれて読んだ、風変わりな孤独についての短編集。
元旦に、伯母が亡くなったと知らせが届いた。父の長兄の連れあい。6日に葬儀があり、3時間ほどかけて懐かしい祖父母の家へ行ってきた。
墓と仏壇を継いでいるのだけれど、伯父はとうに亡くなっているし、その家のひとり息子、私の従兄弟も6年ほど前に亡くなっているので、たぶん、ここに来るのもこれが最後かなぁと思う。

小学生のうちは、夏休み冬休みには必ずこの家に来ていた。
お盆の迎え火。祖父母と一緒に提灯を持って、お墓へ仏様を迎えに往き、提灯の火をお仏壇に移す。提灯の火を消さないようにそっと大事に扱う祖母の様子に、仏様とかご先祖様とかそういう魂が近しく思えた。
暮れには本物の臼と杵で餅をついた。杵を振る祖父と伯父たち。餅を返す祖母や伯母。搗きたての餅を、丸めてゆくのは年若い叔母や年嵩の従姉妹たち。ガキンチョの従兄弟たちはちぎってもらってきな粉と砂糖でおやつ。
祖母に連れられて裏山に草餅にする蓬を摘みに行ったのは春休みだったのか。

あの家にはいつも本物の火があった。
お風呂は薪で焚いていた。木を組んだ湯船で井戸水を汲んで沸かしていた。台所には竈があって、お釜には重たい木の蓋が乗っていた。薪はいくらでもあった。工房からでる木っ端が薪になった。掘り炬燵では練炭が燃えていた。夕方には裏庭で焚き火をした。ゴミや落ち葉はみんな燃やした。お仏壇にはいつも燈明があがっていた。
本物の火は良い匂いがした。木や炭や蝋の燃える匂い。
用を終えて火が消された後に、より強く匂った。大好きだった。

祖父母が逝き、伯父が亡くなって家は建て替えられ、家業も変わったので、もう昔を思い出すものはなんにもなかった。

おじいちゃんも、おばあちゃんも、おじちゃんも、おばちゃんも、もう誰もいない。
炎が生まれるあの匂いも、もうどこにもなかった。
仕事始めの今日、頭の中でずっと清志郎(のオトモダチ)が歌ってた。

ずっと夢見させてくれてありがと
僕はでいどりーむびりーばー
そんで彼女はクイーン


父に会いに

2012年1月3日 日常
ふと思い立って、父のお骨を預けている霊園へ行った。

お骨になってこんなところにひとり置かれているのかと思ったら
なんだか寂しくなってしまった。
やっぱり庭にいると思うほうがほっとする。
ほんとうに、庭へ散骨したいなぁ。
昭和30年代の15万円って、いったい幾らなんだろう。
国家公務員の初任給が9000円くらいだったようだから、今だったら20倍したくらい? 300万? えー??

父が愛用していた時計の話。
オメガのシーマスターをずっとはめていた。勤め先のオーナーがヨーロッパへ行くことになって、オメガの時計を買ってきて欲しいと頼んだのだそうだ。その時計に15万払ったと言っていた。
半世紀は前の話。その頃は1ドルは360円だったのかな。円の持ち出しに制限はなかったのかしら?そもそも、渡航は自由だったのかしら?高度経済成長期で景気は良かったようだけれど。

時代だなぁ、と思う。舶来品なんて言葉、いまは死語だけれど、半世紀前の青年のあこがれだったんだろうな。
私が生まれる前からこの時計は父の左手首にあったんだ。仕事を引退してからは腕時計をすることもなくなったけれど、時々取り出しては、買ってきてもらったときの話になった。だから私は、形見に貰うからねーなんて言ってた。
ほんとうに形見になった。

自動巻きなので、使われなくなってから止まったままになっていたけれど、手に持って軽く動かすとバネを巻き上げる軽やかな音がする。時間を合わせて、今日一日左手にはめてみたら、きちんと時刻を刻んで動く。すごいね。
数十年、仕事をする父の腕にあったので、ガラスのフェイスは傷だらけだけれど、18金なのかな、フレームや竜頭はアンティークな風合いになっている。
小ぶりで、文字盤も12の金のポイントと長針短針秒針だけのシンプルなものなので、私が使ってもいいかなと思う。革のベルトを変えて、仕事用にしようかな。自動巻きだから仕事のときに使わないと止まってしまうから。

チクタクチクタクチクタクチクタク・・。
耳にあてると、デジタル時計にはない時を刻む音が聞こえる。クォーツ時計とも違う、速いリズムだ。バネを巻く音、解けてゆく音、精巧に組み立てられた器械の鼓動。とても耳に心地良い音がする。

300万とはとても思えないし、骨董ともいえなさそうなただの古道具だけれど、良い時計だと思う。


そういえば、シーマスターの裏蓋にあるエンブレムはシーホース。タツノオトシゴだ。辰年の、年が明けてからこの時計を目覚めさせたというのは、符丁としては悪くないかな。
ハリウッドの恋愛映画の、エンドマークのその後。おとぎ話のリアルな後日談。・・・のような短編集。

掛け違ったボタン、薄っすらと降り積もったホコリ、呑み込んでいたコトバ、鏡越しに見てしまったヒミツ。壊れながら生きてゆく日常は、この先もまだまだ続くのねぇ、というお話。たぶん男の人は幾つになってもロマンチストなんだろうなぁ、どの主人公もナイーブで少し情けない。

古傷

2011年12月23日 日常
中学2年の冬に、救急車というものに初めて乗った。

台所でコップを洗っていたら洗い桶の水が真っ赤になって、見ると右手人差し指の付け根がガラスでざっくり切れていた。バンドエイドを探したけれど救急箱は空っぽで、仕方がないのでお隣の小母さんを訪ねた。バンドエイドを貰おうと思って。
だけど傷を見た小母さんがびっくりして病院へ連れて行ってくれた。ところが近所の病院は、救急指定の病院だったのに、「いま外科医がいないから」と診てはくれず、ではどこへ行けば・・・と途方に暮れていると巡回中のおまわりさんに出会って声を掛けられた。カクカクシカジカと話すと、今日は日曜だから救急車呼んだほうが早いよ、と無線で連絡を取ってくれて、救急車が到着、小母さんとふたりで乗り込んだ。

私は焦っていた。バンドエイドがなかったばっかりに、なんだかオオゴトになってしまって・・。おまわりさんにも救急車の人にも、外科の先生にも言いたかった。バンドエイドが欲しかっただけなんです、と。

夜。帰宅した父に話して、お隣へお礼に行った。
父に、電話すれば良かったのに・・と言われたけれど、車で30分の街で仕事してる父に電話することなど考えもしなかった。だって「バンドエイドが欲しかっただけだから・・」と言ったら「まあそうだな」と父も納得していた。

結果は、かなり深く切っていたらしく5針縫ったから病院へは行ったほうが良かったのだけれど。関節なので縫わないと塞がらない傷だったようだから。バンドエイドがあったら、数日経ってもっと酷いことになっていたかもしれない。

右の人差し指の付け根には、齢27日くらいの弓月のような白い傷が残っている。
年齢を重ねてから、この傷が存在感を発揮しだした。小さな血管やなにかを傷つけていたんだろう。血行が悪いのか人差し指だけ冷たくなって痺れたような鈍痛を感じるときがある。
切ったときは、困ったなと思うばかりで不思議と痛みを感じてなかったのだけど。
古傷をさすっていると、あの日の困った気分を思い出す。

どこがどう、とは言えないのだけれど。
これは日本語で書かれた作品ではないのだなぁ、と思った。

戯言

2011年12月21日 日常 コメント (2)
アメリカはどうするんだろうなぁ、なんて考える。
今年は、ビンラディンとか、カダフィとか、喧嘩相手が次々いなくなっちゃって。銃は、持ったら撃ってみたくなるものだそうだし。有余る兵器の使いどころがないと困っちゃうよね。
敵視してはいたけど、鉄砲ぶっ放す大義名分がなくて静観してたように見える北朝鮮のキムさんが亡くなって、いよいよ孤独なガキ大将のアメリカ。
キムさんの若きジュニアがモンスター化しなきゃいいけど。あるいはモンスターに仕立てられなきゃ良いけど、とかつらつら思う。アメリカは世界平和なんて望んでないと思うもの。鉄砲もって出掛けて行く先が欲しいよねぇ。


読書

2011年12月15日 読書
読書
読書
読書
玄関脇のモミジがいきなり紅く色づいていた。
冬だ。


庭に

2011年12月9日 日常 コメント (2)
父はどこにいるんだろう。
お仏壇に徹翁淳仁居士って名前を変えて納まっているの?
霊園のお骨は?あれが父?母はそのふたつを拠り所にしてすんなりと納まっているようだけど。

父はねえ、庭にいるんだよ。
庭に出て、父の植えた木や草を眺めて触れていると、父もこんな静かな気持で庭を見て歩いていたんだなぁと思う。裏の物置の陰から植木を抱えてひょいと現れそうな気がするもの。
紅く色づいたハゼの鉢を手に取ると「それはウルシハゼだよ」という声が聞こえるもの。
父はいまでも庭にいるよ。


いまは昔

2011年12月5日 映画
ああ、もうずいぶん会ってないなぁ。このところ会いたい会いたいって切実に思うこともなかったなぁ。私たちってまだ付き合ってるのかしら?こんなに会わなくて、連絡取ることもしないで、まだ付き合ってるっていえるのかな?ううん、でもあなたを想うとやっぱり切ない。いまもまだ好き。


中森明菜のファンでいるのはなかなかシンドイと前にも書いた。
遠い恋人の思い出をなぞるような気持になる。甘くて苦い。

この「イーストライブ」の中森明菜がとても好き。遠い遠い、宝石のようだと思う。

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